SILENT MOVIE
サイレント・ムービーについて

残念ながら、サイレント・ムービーに関して触れたHPはとても数少ないです・・・。
(おまけに本まで・・・)
このページでは、私の思う範囲で
サイレント・ムービーの魅力について書いてみたいと思います!。

映画創世記・・・光と陰

映画とは何か・・・?。ひとつのある発明が、今日のエンターテイメントとしての新しい分野を切り開いたのは確かな事だ。
それは、テレビジョンの発明〜放送開始、VTRの研究、開発、ハイ・ヴィジョンをはじめ、あらゆるメディアとしての革命の原点でもあった・・・。
・・・映画の始まりとは、なんだったのか・・・。

映画の原理・・・、それは、光と陰、それに、万華鏡を応用した様な物・・・。


よく、映画の発明と言えば、“エジソン”を抜きには語れないと言われる・・・。
がしかし、実際はそうではなかった・・・。むしろ“エジソン”は映画史上、相当な敵役とも言われていた・・・。

1891年に、エジソンが作った「キネトスコープ」という覗き箱式の映画が公開される以前から、あらゆる発明家が似たような装置を工夫し特許を申請していた。が、エジソンは強力な弁護士団を組織し、これを自分ひとりの発明と豪語した。
おまけに他の特許所有者を抱き込み、「アメリカで映画を作る者はすべて、エジソンの特許会社の許可を得なければならない」という独占体制までもをつくりあげたのだ・・・。(←まるで、どこかの誰かさんの様だ・・・)
他の「映画人」たちは、“エジソン軍団”を恐れて、アメリカ・ロサンジェルスへと集結した。これが“ハリウッド”に映画撮影所が開けた理由でもあった・・・。
やがて1910年代半ば頃、エジソン一派は独占禁止法に敗れ、映画は、“ニューヨーク”という映画発祥の地から“ハリウッド”へと場所を移し、後に映画全盛時代を迎える事となる。


映画の歴史は100年にもなるが、この“100年”の数え方には二通りある。
まず、“トーマス・エジソン研究所”が覗き箱式の映画「キネトスコープ」の実用化に成功した年、1891年・・・。
パリで、“リュミエール兄弟”が、広い会場で上映出来る映画「シネマトグラフ」を開発発表した年、1895年・・・。
つまり、アメリカとフランス、エジソンとリュミエール兄弟で、二派に分かれるのである・・・。

リュミエール兄弟がスクリーンに映写出来る方式、「シネマトグラフ」を開発した時に最初に撮影した物が、自分たちの日常の実写であった。とにかく「映画の初期」の段階では、動く物、面白そうな物なら、なんでも撮られた。やがて、同じフランス出身、“メリエス”によって、映画では様々なトリック撮影が可能である事が発見され、トリックを応用したあらゆる映画が撮影された。
こういった個人の実験と工夫の試行錯誤によって作られたフィルム、特許などが、大手研究企業によって買い取られ、遂に映画は、興業物として扱われる時代を築く事になった。“本格的映画の時代”の始まりである。



映画の都 “ハリウッド”

初期のサイレント・ムービーで国際的に知られる国は、デンマーク、イタリア、フランス、ドイツ。それに次いでスウェーデンとアメリカである。
1914年、第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパでは、戦火の中、映画製作どころではなかった。この時ハリウッドでは、ここぞとばかりに盛んに映画を作って世界の映画市場を一気に制覇してしまったのだ。

この頃のハリウッド映画には、どの作品にも、ある共通点がある。それは、「活動的」「行動的」「ストーリーの楽天性」「ストーリーの分かりやすさ」「テンポの速さ」それに「豪華さ」である。

劇映画の始まりは、舞台劇の実写から始まった。ヨーロッパの様に舞台劇の伝統を持たないアメリカでは、俳優たちの自由さが溢れている。例えどんな深い難問が扱われていても、ラストはたいてい「ハッピーエンド」で終わってしまう。この明朗な楽天性が人々に希望を与えてくれた。また、アメリカは先進国中、最も人口が多い国であるうえに、世界中に市場を獲得していたので、一番金のかかった映画を作る事が出来た。
この中のいくつかは、現代のハリウッド映画にも受け継がれているが、いくつかは、必ずしもそうではない。今日のアメリカ映画に、楽天性や、単純明快なストーリーを求めるのは難しい・・・。



その終焉

初期の映画の撮影時に使われた手回し式カメラは、1秒あたり16〜20フレームという、かなり不規則な物であった(撮影カメラマンの手加減にもよるが)・・・。が、その後、カメラは電動モーターで回される様になり、フィルムに正確なスピードで記録する技術を得る事が出来る様になった・・・。映写機も同様に正確なスピード(1秒あたり24フレーム固定)で回される事になる・・・。フィルムの1フレーム分の両端に打ち抜かれた4つの穴(パーフォーレション・パンチ)を、瞬間毎に止めて、尚かつ高速で回す事は、とても難しく、また革命的な発明だったのである・・・。

余談だが、現在の撮影用カメラは、撮影スピードを可変出来る特徴を持っており、場面に応じてスピードを変えたり出来る様になっている。
古いフィルムを現在の映写機で再生した際に、“ちょこまか”した動きになってしまうのは、映写機が全て1秒あたり24フレームと決まっている為である。

丁度この頃から、フィルムに音声をプリントするという動きが盛んになる。また、あらゆる実験的なフィルムも撮影された。
“カチンコ”も、音声とフィルムを合成する際に重要な物として使われる事になる。つまり、磁気テープの“カチンコの音”と、フィルム上で“カチンコを叩く瞬間”の部分で、音声とフィルムをシンクロさせるのである。

初期の音声は、音楽をフィルムに被せるだけの試みのみであったが(チャップリンの「街の灯」など・・・)、それでも遂に映画人達は、“無声映画”に“音声”を入れるという技術を手にする事となってしまった・・・。


大きな問題を抱え込んだ・・・。サイレント当時の映画館では、(どこの映画館でも、いくらサイレントと言えども)お抱えのオーケストラを持っていた・・・。「サイレント映画+オーケストラ」(日本の場合は活弁士)という映画の楽しみ方は、娯楽の一つとして切り離せないものだったのだが、トーキーの到来により、多くの劇場奏者は、一気に職を失い、路上で演奏をして生活をしのぐといった状態を引き起こす・・・。

俳優ら(特に女優)も、「声が悪いから」「訛がひどいから」というだけで、仕事を失い、引退せざるを得なくなる・・・。
中には、自分の声を極端に嫌い、自分の喉を切って自殺する者まで現れた・・・。

特に言葉の問題だ・・・。「国と国の隔たりを作り、芸術性を失ってしまう」と、誰もが思った・・・。
実際、トーキーにより英語が国際言語になる事を望んだアメリカは、ヨーロッパ中から非難を浴びる事になった・・・。
その国、その国に合わせた別ヴァージョンまでをも作らなければならなくなる・・・。小さい映画会社程、資金繰りがうまく行かなくなり、終いには潰れてしまう事に・・・。


が、時代は確実に移り変わっていく・・・。映画はもう、“サイレント”を必要としなくなり、“トーキー”の時代へと変わっていく・・・。
“字幕のセリフ”も必要としない、“正確なコマ撮り撮影をするカメラ”、“磁気テープを使用した音声”・・・。

それは、光と陰・・・。サイレント・ムービーの終焉を告げる時代の訪れでもあったのだ・・・。